「――驚いたのは、ここからだ。なんと、
人間の里では能楽が流行り出していたんだよ」
縁側にやってきた、マヨヒガに住みつく猫を撫でながら、藍は土産話をつらつらと並べる。
しかし、彼女の口はそこで止まることとなる。理由は簡単。橙がすやすやと寝息を立てていたからだ。
「やはり、寝てしまったか。
少し長話が過ぎたかな?
……いいや、それだけじゃない、か」
藍の膝の上ですっかり寝入ってしまった橙に微笑んだ後、藍はゆっくりと視線を空のほうへとやる。
「こんなにも心地いい
春の陽気に包まれているんだ。
むしろ寝ないほうがおかしいだろう」
縁側の猫たちも、静かな寝息とともにお腹を上下させている。
頬を撫でる春風が心地いい。眠気を誘発するにはうってつけだ。
「綺麗な桜に、縁側で眠る猫と式神、か……
まさに春の風物詩とはこのことだな」
春夏秋冬、四季は巡る。式神である橙との思い出は、その度に重なり、厚みを増していく。
化け猫としてもまだ幼い橙は、これから多くの体験をしていくのだろう。
もしかしたら、こういうささいな思い出を忘れていってしまうかもしれない。
――ならば、自分が覚えていよう。橙が忘れたとしても、主である自分こそが。
「……来年の桜も、きっと綺麗だよ。橙」
返事は寝息だけ。しかし、それで構わない、と藍は微笑んだ。